
ショウ・ブラザーズ/TVB館
ショウ・ブラザーズとTVB(無綫電視)
香港がかつて国際的に名を馳せたのは、英国植民地という立場に加えて、香港が送り出した中国語圏の映画・テレビ文化が極めて重要な役割を果たしたからです。中でも「ショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟)」と、その後設立された「TVB(無綫電視)」は長きにわたり業界を牽引し、香港の映画・テレビ産業の発展を映し出すだけでなく、幾世代もの香港人にとってかけがえのない文化的資産を築き上げました。
ショウ・ブラザーズ、TVBと香港の映画・テレビ史

香港の映画・テレビ界の大立者
邵逸夫(ラン・ラン・ショウ)爵士 Sir Run Run Shaw
1960年代初頭、香港の映画産業は隆盛を極め、多くの映画会社が破竹の勢いを見せていました。中でもショウ・ブラザーズは、30年の間に千本を超える映画を制作するという驚異的な数を誇ります。香港映画はのちに「東洋のハリウッド」と称され、傑出したスターや映画製作者は枚挙にいとまがありません。
ショウ・ブラザーズの創業者である邵逸夫爵士のほかにも、ブルース・リー(李小龍)、ジャッキー・チェン(成龍)、チョウ・ユンファ(周潤發)、チャウ・シンチー(周星馳)、レスリー・チャン(張國榮)、アニタ・ムイ(梅艷芳)、トニー・レオン(梁朝偉)など、誰もがよく知る名前が並びます。銀幕で光を放ったこれらの人々は、いずれも邵逸夫が設立に関わったTVBに出演したことがあり、なかにはTVB出身の人もいます。
1970年代にカラーテレビが普及すると、邵逸夫爵士の事業の焦点もショウ・ブラザーズからTVBへと移っていきました。テレビ文化は社会のあらゆる階層に深く浸透し、TVBの影響力は絶大なものとなりました。その指揮を執った邵逸夫爵士は、香港テレビ業界の舵取り役であると同時に名高い教育慈善家でもあり、今日に至るまで、香港の各大学には「邵逸夫」Sir Run Runの面影が随所に残っています。
邵逸夫の英語名がなぜRun Run Shawなのかについて、メディアの報道はいくつかの可能性を伝えています。一つは、若い頃に仕事のためフィルムを抱えて各地を駆け回ったことから「Run Run」と名づけられたというもの。また、黄霑(ジェームズ・ウォン)の《數風雲人物》が伝える邵逸夫本人の説明も報じられています。「私がオフィスボーイをしていた頃、店主はいつも手を振って私を呼びつけました。『Run!Run!』と。こうして私の英語名はRun Runになったのです」。さらに、本名「邵仁楞」の発音に由来するという説もあります。
「邵氏出品 必屬佳品」――ショウの作品なら間違いなし
邵氏兄弟(香港)有限公司(ショウ・ブラザーズ)
「六叔」(ロクソック、“六番目のおじさん”の意)として広く知られる邵逸夫爵士は、1958年、三兄の邵仁枚(ランミー・ショウ、Runme Shaw)とともに香港で「邵氏兄弟(香港)有限公司」を設立し、地元での映画制作に乗り出しました。さらに、のちに香港映画界の重鎮となり嘉禾(ゴールデン・ハーベスト)グループを創業する鄒文懷(レイモンド・チョウ)を右腕として招き、清水湾(クリアウォーターベイ)半島の土地を買い取ってショウ・ブラザーズ撮影所を建設しました。
ショウ・ブラザーズは設立と同時に「邵氏出品,必屬佳品(ショウの作品なら間違いなし)」の旗印を掲げ、張徹(チャン・チェー、Chang Cheh)や胡金銓(キン・フー、King Hu)といった著名監督を次々と迎え入れました。当時の香港映画産業はまだ発達していたとは言えませんでしたが、中国大陸の黄梅戯映画《天仙配》が香港で公開されて大きな反響を呼ぶと、邵逸夫は好機の到来を悟り、李翰祥(リー・ハンシャン)監督を重用して、1958年の《貂蟬》、1959年の《江山美人》、1963年の《梁山伯與祝英台》など、広く愛される黄梅調映画を数多く制作し、事業を大きく伸ばしました。
初期のショウ・ブラザーズ作品は、新鋭の作風と安定した品質によって急速に台頭し、一躍アジアで最も重要な中国語映画の制作拠点の一つとなりました。当時の香港映画はすでに西洋に匹敵する技術水準に達しており、ショウ・ブラザーズをはじめとする映画会社は、香港に映画の新時代を切り拓くとともに、巨大な文化産業をもたらしました。


映画大戦
ショウ・ブラザーズと電懋
一社だけが支配する商業市場では抜きん出ることが難しく、香港映画産業の勃興もその例外ではありませんでした。「國際電影懋業有限公司」(電懋、MP&GI)とショウ・ブラザーズの熾烈な競争こそ、香港映画産業が飛躍する原動力だったと言えます。電懋は1950年代の香港における国語(標準中国語)映画制作の最大手で、《星星月亮太陽》(星と月と太陽)や《啼笑姻緣》などは水準の高い作品でした。
電懋に対して、ショウ・ブラザーズは観客の求めに応じ、文芸映画、歌と踊りの映画、時代宮廷映画、黄梅調映画、武侠アクション映画、ホラー映画、喜劇映画など、多彩なジャンルのシリーズを展開して観客を奪い合いました。
ショウ・ブラザーズと電懋の熾烈な競争は、1964年、電懋の総帥・陸運濤(ロク・ワントー、Loke Wan Tho)と幹部数名が飛行機事故で不幸にも世を去ったことで、ようやく一区切りを迎えました。電懋はその後「國泰機構 (香港) (1965) 有限公司」と改称し、撮影所は1970年代に「嘉禾(ゴールデン・ハーベスト)」へ譲渡され、映画配給と映画館の事業も1990年代に幕を下ろしました。
ショウ・ブラザーズは設立からわずか二、三十年の間に800本を超える作品を送り出し、年間の映画制作本数も20本から40本超に達しました。この膨大な年間制作量を支えたのが、ハリウッドの撮影所システム(スタジオ・システム)の導入です。自前の映画都市を建設し、経営、制作、人材育成、宣伝、配給までを一手に担いました。ショウ・ブラザーズの輝かしい業績は1970年代半ばから下降し始めますが、急速に進む市場のローカル化(香港本土化)に適応できなかったためだと言われています。
ショウ撮影所の再来
TVB(無綫電視)
1970年代に入ると、映画の市況はかつての勢いを失いました。他方、テレビの視聴者は70年代半ばにはすでに300万人近くに達していました。70年代末にはゴールデンタイムの平均視聴率が60ポイントに達しています。つまり、10人のうち6人が夜にテレビを見ていたことになります。
1967年、ショウ・ブラザーズの邵逸夫、希慎(ハイサン、Hysan)の利孝和(リー・ハウウォー)、余仁生(ユー・ヤンサン、Eu Yan Sang)の余經緯(ユー・キンワイ)、和記洋行(ハチソン)の祈德尊(サー・ダグラス・クラグ、Sir Douglas Clague)らが手を組み、「TVB(無綫電視)」を設立しました。1970年代初頭、TVBは撮影所方式で制作を運営し、ショウ・ブラザーズはさらにTVBと共同で「電影電視演員訓練中心(映画テレビ俳優訓練センター)」を設け、傅聲(アレクサンダー・フー・シェン)や李修賢(ダニー・リー)など多くのスターを育てました。
1980年、邵逸夫はTVBの取締役会主席に就任し、ショウ・ブラザーズのスタジオをTVBに貸し出して、さまざまなテレビ番組やドラマを流れ作業方式で制作・放送する体制を実現しました。TVBと「麗的電視(RTV、Rediffusion Television)」や「佳視(CTV)」との競争は1970年代後半には大勢が明らかになり、TVBは以後40年近く香港のテレビ界に君臨しました。その主導的地位を失ったのは、ごく近年のことです。
競争の転換点となったのは、「佳視」の倒産に加え、1978年のドラマ《小李飛刀》、1979年の《網中人》と《上海灘》、1980年代の武侠ドラマ《射雕英雄傳》などの大ヒットでした。それはあたかも、衰退しつつあった映画制作をテレビという舞台に移して蘇らせたかのようでした。ショウ・ブラザーズの映画は次第に減産していきましたが、その流れ作業方式とスター育成のシステムはテレビ業界へと受け継がれ、すべてがショウ撮影所の再版のようでした。
実のところ、1970年代からは映画の出資と制作の分離が始まっていました。嘉禾(ゴールデン・ハーベスト)はこの方式を採用して自社撮影所を持たず、映画人はより大きな創作の自由を享受し、従来の撮影所制度の流れ作業方式とその問題点を根本から変えたのです。40年あまり前、ショウ・ブラザーズはTVBへと戦場を移し、邵逸夫の映像王国を存続させました。同じ現象は40年あまり後のテレビ市場にも現れています。オンライン動画産業が急速に発展する中、TVBは、かつての邵逸夫のように映像事業の主導的地位を受け継ぐ新たな道筋を、いまだ見いだせていないように見えます。


香港文化を輸出したTVB
ミス香港と海外発行
TVBの輝かしい実績は、1980年代初頭の番組視聴率に表れています。1983年に最高視聴率を記録したドラマ《神鵰俠侶》の視聴率は62ポイント、すなわち当時の香港でテレビを見る総人口(一般に4歳以上の市民を指します)の62%に達しました。最も視聴率の低かったドラマ《三相逢》でさえ47ポイントを記録しています。
そして長年にわたりTVBが作り上げた最強のブランド「香港小姐(ミス香港)」の決勝戦の視聴率は、1984年には70ポイントに達し、同年の開局記念番組の視聴率60ポイントをも上回りました。毎年のミス香港で、出場者たちが「六叔」と敬意を込めて呼ばれた邵逸夫の手を取って登場する場面に、強い印象を抱いた視聴者も少なくないでしょう。近年、ViuTVの人気番組の視聴率の多くが6ポイント前後にとどまることを思えば、当時のテレビの影響力がいかに大きかったかが分かります。
TVBとテレビ産業の勃興は、広告業界全体、ひいては商業宣伝までも押し上げました。TVBの収入は当然ながら極めて好調で、報道によれば開局からわずか2年後の1969年末には収支が均衡したといいます。1976年、TVBは海外市場への番組発行を開始し、その後、世界各地の華人の多い地域へと展開を広げていきました。ビデオテープのレンタルに始まり、現地のケーブルテレビ・衛星テレビチャンネルの運営、そして近年のオンライン配信へと続いています。
TVBが制作する「香港小姐(ミス香港)」コンテストでは、長年、受賞者が香港代表として国際大会に出場してきました。のちには世界各地の市場で現地の華裔小姐(華人系ミス)選抜を開催し、その勝者が香港での決勝に参加する仕組みも生まれました。TVBは商業組織でありながら、その制作力と浸透力は、あたかも香港の公式テレビ局のようでした。
TVBの事業は世界30か国あまりに及びます。海外収入は一貫して香港をはるかに下回るものの、その番組の影響力は深いものがありました。インターネットが登場する以前、海外の香港人のほとんどはTVBの番組を見ることで香港との心のつながりを保ち、それは香港にいる親族や友人との共通の話題にもなりました。
さらにTVBは、香港で制作した番組に国語(標準中国語)、タイ語、ベトナム語などの吹き替えを施し、東南アジアなどのテレビ局に販売して放送しました。80〜90年代の全盛期には、TVB制作のドラマは中国語圏や東南アジアで広く人気を博し、その俳優、役柄、筋書き、台詞のすべてが流行の要素となりました。
TVBが主導するショウ・ブラザーズ
TVBとショウ・ブラザーズの歩みは、まさに香港映像産業の変転を映し出しています。かつて映画界に君臨したショウ・ブラザーズは、テレビ娯楽の隆盛期にスタジオをTVBに貸し出しただけでなく、近年では映画作品までもがテレビドラマに主導されるようになりました。多くの作品はそのままTVBとの共同制作となり、見た目には映画がテレビドラマの副産物になったかのような印象さえ与えます。
1970年代、観客の娯楽の習慣が映画からテレビへ移る中、ショウ・ブラザーズはTVBへの「上陸」に成功し、映像王国の地位と影響力を存続させました。邵逸夫は1980年にTVBの取締役会主席となり、TVBの象徴的な人物となりました。2010年1月1日、102歳という高齢で「電視廣播有限公司(Television Broadcasts Limited)」の執行主席を退任するまでその座にあり、世界で最も長寿かつ在任期間の長い上場企業の会長となりました。
ショウ・ブラザーズを創業し、数十年にわたりTVBを率いた邵逸夫爵士は、2014年に106歳の高齢で世を去りました。それはまた、ショウ・ブラザーズとTVBの輝かしい時代の終焉を告げる出来事でもありました。
近年はインターネットがテレビに取って代わり、大多数の視聴者が最も長い時間を費やす娯楽となりました。TVBは、かつてのショウ・ブラザーズのように事業転換を成功させ、映像王国の地位を受け継ぐには至っていないようです。また、TVBは報道編集方針をめぐって世間から疑念を持たれ、ネット上では広告主にTVBボイコットを呼びかける運動が起こり、業績に直接の打撃を与え、株価も年々下落しました。邵逸夫時代のTVBを振り返ればまるで隔世の感があり、「邵氏(ショウ・ブラザーズ)」と「無綫(TVB)」は、その名こそ残っているものの、香港の人々が遠くから共に懐かしむことしかできないブランドとなりました。


香港電影資料館(香港フィルムアーカイブ)
香港映画の過去の輝かしい足跡に関心のある方は、香港電影資料館(香港フィルムアーカイブ)を訪ねてみてください。《タイム》誌はこの資料館を、香港ひいてはアジアで最も偉大な視覚芸術の宝庫と評し、「旅行者が見逃せない25のアジア体験」の一つに挙げています。資料館では映画上映、展覧会、講演会などを定期的に開催し、テーマ別の書籍も出版しています。詳細は以下をご覧ください。
香港電影資料館
住所:西灣河(サイワンホー)鯉景道50号
開館時間:月曜、水曜〜日曜:午前10時〜午後8時、クリスマスイブおよび旧暦大晦日:午前10時〜午後5時、火曜(祝日を除く)および旧暦正月の1日・2日は休館
資料出典:
邵氏兄弟國際影業有限公司
https://www.shawbrothers.hk/zh-hk/about-us
http://shawbrotherspictures.com/tc/releases.php
王賡武主編:《香港史新編》,第一、二冊
香港 : 三聯書店(香港)有限公司 1997年
電視戰國時代
馬傑偉著
馬傑偉初版 香港 : 次文化堂 : 總經銷利源書報社 1992年
李雪廬回憶錄 : 廣告及電視先鋒
/李雪廬著
香港第1版 香港 : 三聯書店香港有限公司 2010年12月
光影裏的浪花:香港電影脈絡回憶
魏君子著
中華書局(香港)有限公司 2019年5月
https://www.bbc.com/news/av/entertainment-arts-25644774
邵氏已沒落?香港影評庫(ショウ・ブラザーズはもう衰退したのか?香港映画評論ライブラリー)
香港1989年, 中文公事管理局
《香港電影》 蔡仲樑,文化研究@嶺南 (第29期 2012年6月)
https://www.ln.edu.hk/mcsln/archive/29th_issue/key_concept_01.shtml
香港影片大全第六卷(1965-1969),香港電影資料館
https://www.lcsd.gov.hk/CE/CulturalService/HKFA/zh_TW/web/hkfa/rp-hk-filmography-series-7-2.html
記「璇宮」「國泰」兩家戲院,張茅
http://www.takungpao.com.hk/culture/text/2016/0925/26451.html [アーカイブ]
香港歷史博物館「香港故事」
香港電影資料館
https://www.filmarchive.gov.hk/zh_TW/web/hkfa/home.html
<../pdfs/tvb-loke-wan-tho-c.pdf>
https://www.hk01.com/即時娛樂/652471/三台收視報告-極罕見情況-同時段下viutv收窄與tvb的差距
http://www.tvbusa.com/tvb-weekly/tvb-weekly-entertainment-profile/1069-miss-hong-kong-44th-anniversary/ [アーカイブ]
影視大亨邵逸夫的傳奇一生(映像界の大立者・邵逸夫の伝奇的な生涯)
https://www.bbc.com/zhongwen/trad/china/2014/01/140107_runrunshaw_profile
陸運濤:撐起早年香港電影工業的馬來華商(陸運濤:草創期の香港映画産業を支えたマレーの華人実業家)
https://www.cup.com.hk/2023/01/13/loke-wan-tho/
娛樂王朝「邵氏、電懋」雙雄逐鹿(娯楽王朝「邵氏・電懋」二雄の争い)
https://www.storm.mg/article/4825880?mode=whole
https://ps.hket.com/article/3236132
https://www.bbc.com/zhongwen/trad/china/2011/04/110401_hongkong_tvb
Published in Oct 2021 & Updated in 2023 by Hong Kong Brand Museum 香港品牌博物館