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スワイヤー(太古)館

スワイヤー(太古)グループ Swire Group

スワイヤー(太古〔タイクー〕)グループの香港での歴史は古く、早くも 1870 年には香港に支店を開設していました。今日、香港ではMTRに「太古」駅があり、スーパーマーケットには「太古糖」が並ぶだけでなく、「コカ・コーラ」や「キャセイパシフィック航空」をはじめ、日常生活の中でスワイヤーの姿を目にすることは少なくありません。太古傘下のこの2社だけでも数多くのブランドを擁するうえ、ショッピングモール、ホテル、不動産、自動車、小売、食品、海運などの事業も加わり、150 年余りにわたってスワイヤーは香港のあらゆる場所に浸透してきたといえます。

香港人の暮らしの一部となった太古のブランド

大吉.Taikoo・Swire

Swire の中国語名がなぜ「太古」なのかについては、諸説が入り乱れています。最も興味を引く説は、創業者 John Samuel Swire が、中国人の「利是(ライシー、ご祝儀袋)」や提灯に書かれた「大吉」の二文字を見かけ、会社に戻ってから字画を覚え違えて「太古」と書いてしまった、というものです。

一方、公式の刊行物によれば、漢学者出身の英国駐上海領事 Thomas Taylor Meadows が中国の古典に着想を得て、あえて「太古」の二文字を選んだとされます。「太」は「太初」から、「古」は「盤古」から取られ、合わせて「広大にして悠久」の意を持たせるとともに、「太古」が巧みな視覚的掛け言葉として Butterfield & Swire に吉祥をもたらすことを願ったといいます。

いずれにせよ、1866 年には Swire はすでに「太古洋行」という中国語名を使用しており、当時の新聞広告には「Tai-Koo Yuen Hong」という表記も見られます。

アヘンを売らなかった太古

スワイヤー・グループ (Swire Group) の創業者は John Samuel Swire と Richard Shackleton Butterfield の 2 人で、1866 年の設立時の英文社名が「Butterfield & Swire」となったのは当然の成り行きでした。香港で英国親会社にならった英文社名に改め、「John Swire & Sons (H.K.) Limited」として登記したのは 1974 年のことです。

実は Richard Shackleton Butterfield は、開業からわずか 1 年で持ち株を手放して会社を去っています。伝えられるところによれば、当時の英国商人の間で富をもたらす商売として流行していたアヘン貿易(今日でいう麻薬取引)に Butterfield が関与しようとしたことに John Swire が同意せず、まっとうな事業を志向し、日陰の商売は長続きしないと考えたためだといいます。

そして John Swire の後継者たちが社名から Butterfield の名を外したのは、Butterfield の退社から 100 年余りも後のことでした。

太古糖

スーパーマーケットで豊富な種類が並ぶ「太古糖(タイクー・シュガー)」の歴史は古く、清朝末期には中国での市場シェアが 3 分の 2 に達し、誰もが知る生活必需品となっていました。早くも 1884 年には、太古は鰂魚涌(クォーリーベイ)で白砂糖を生産していました。

銅鑼湾(コーズウェイベイ)には「糖街(シュガーストリート)」という通りがありますが、そこは実は香港初の製糖工場があった場所で、「ジャーディン・マセソン(怡和洋行)」が経営していました。太古洋行の製糖工場は鰂魚涌にあり、今日の太古坊(タイクー・プレイス)にある「糖廠街(トンチョン・ストリート)」こそが、太古の製糖工場にちなんで名付けられた通りです。太古の製糖工場は当時の香港で最初期に電灯設備を導入した企業の一つであり、当時世界で最も先進的な製糖工場でもありました。

糖廠街だけでなく、康怡廣場(コーンヒル・プラザ)のある康山(コーンヒル)も太古糖と関わりがあります。製糖工場の開業当時、初代支配人 Dr. Ferdinand Korn をはじめ多くのドイツ人専門家が雇われました。Korn ら幹部チームは香港到着後、工場脇の山の上にある一戸建ての社宅街に入居し、その地は「Kornhill(康山)」と名付けられました。

この工場は 1972 年まで操業を続けた後に閉鎖され、取り壊しの後「太古工商業中心」(Taikoo Trading Estate)に生まれ変わり、90 年代には今日の「太古坊」へと変貌しました。

太古糖 vs

明治製糖

今日、多くの香港人は日本製の食品を好んで買いますが、19 世紀末には、日本全国のほとんどが香港製の砂糖を口にしていました。太古糖とジャーディン・マセソンの砂糖はおよそ 3 対 7 の割合で日本市場を占めていましたが、日本が台湾を植民地として手に入れた後、中国と日本で「明治製糖」「大正製糖」「大日本製糖」などの挑戦を受けることになります。「明治製糖」はのちに「明治製菓株式会社」を展開し、香港人にも愛される明治のチョコレートなどを生み出しました。

太古城(タイクーシン)と

黄埔花園

太古糖の歴史は長いものの、今日もっとも多くの人が毎日口にする「太古」ブランドは、「太古城(タイクーシン)」かもしれません。鰂魚涌駅にある「太古坊」の前身が太古の製糖工場だったのに対し、太古駅にある「太古城」の前身は「太古船塢(タイクー・ドックヤード、太古造船所)」でした。現在の太古城中心(シティプラザ)の地下駐車場は、まさに太古の乾ドック跡地に造られたものです。

太古洋行は海運業から身を起こし、1907 年、製糖工場の隣で山を削り海を埋め立てて「太古船塢」を建設しました。ドックは 1972 年まで操業した後、黄埔船塢(ワンポア・ドック)と合併して青衣(チンイー)に移転しました。黄埔船塢はのちに「和記黄埔(ハチソン・ワンポア)」によって「黄埔新邨」と「黄埔花園」として開発されました。

「太古地產(スワイヤー・プロパティーズ)」は、まさにこのドックと製糖工場の土地を開発するために設立されました。太古城のほかにも「鯉景灣」「維景灣畔」「又一村花園」「傲璇 Opus」など数々の著名な住宅プロジェクトを香港で手がけ、商業プロジェクトには「太古廣場(パシフィック・プレイス)」「又一城(フェスティバル・ウォーク)」「東薈城(シティゲート)」などがあります。

現在、「掃街(ソウガーイ、食べ歩き)」グルメの店で知られる西灣河(サイワンホー)の「太安樓」の前身は、当時の太古船塢の従業員宿舎でした。太古は土地の習わしに従い、宿舎街の通りにあえて「太」の字を冠した名前を付けました。太安街、太康街、太富街などがそれです。のちに「香港置地(ホンコンランド)」が宿舎街を再開発した際も、「太安樓」などの名前は引き継がれました。

太古小学校と太古橋

宿舎に加え、太古は従業員の子どもたちに無償の初等教育も提供しました。1923 年に開設された「太古義學」(Taikoo Free School) には当初正式な校舎がなく、授業はドック内の小さな一室で行われていました。1947 年に政府補助小学校となり、2002 年に現在の「太古小學」の鰂魚涌・英皇道(キングスロード)校舎へ移転しました。

当時、多くの卒業生が親と同じように製糖工場やドックで働くことを望んだため、太古は「太古夜學」(Taikoo Evening School) を開き、卒業生に徒弟訓練を提供しました。

太古はまた、香港大学を早くから支援した企業の一つでもあり、1980 年には香港大学の学生寮の建設に出資し、寮は「太古堂」と名付けられました。より多くの人が耳にしたことがあるのは、太古堂の前にある「太古橋」のほうかもしれません。1989 年の六四天安門事件の後、学生たちが路面に「冷血屠城烈士英魂不朽,誓殲豺狼民主星火不滅」(冷血の虐殺に倒れた烈士の英魂は朽ちず、豺狼を討ち滅ぼすことを誓い民主の星火は消えず、の意)とペンキで書き、毎年塗り直してきたため、たびたびニュースになりました。報道によれば、香港国家安全維持法の施行後の 2022 年、香港大学は新型コロナウイルス(新型肺炎)流行の時期に当該歩道を封鎖し、路面にあった文字も年初に消されたといいます。

キャセイパシフィック航空・

HAECO ・

太古旅遊(スワイヤー・トラベル)

早くも 1930 年代には、太古は航空業の将来性に注目し、旅客・貨物代理と整備事業の開拓に意を注いでいました。第二次世界大戦後、太古は Australian National Airways (ANA) にオーストラリア=香港路線の開設を熱心に働きかけ、中国・香港・日本での代理店となることを目指しました。(この ANA は日本の全日本空輸とは別で、オーストラリアのアンセット航空 Ansett Australia の前身にあたり、2001 年の経営破綻後、路線権は変転を経て Virgin Australia が運航しています)

しかしオーストラリア政府は最終的にこの路線を Qantas Airways(カンタス航空)に割り当て、事業構想は水泡に帰しました。このことが、航空権を申請するためには香港に本拠を置く航空会社を自ら持たなければならない、という太古の思いに火をつけたのです。同じ頃、太古は太古船塢の工学技術を生かして啓徳(カイタック)空港に航空機修理・整備会社を興し、のちの合併を経て現在の「香港飛機工程」(HAECO 港機工程) となりました。

1948 年、太古は「太古洋行」および「太古輪船公司」の名義で「キャセイパシフィック航空(國泰航空)」の株式 45% を取得し、オーストラリアの ANA が 35% を出資して、合わせて 8 割の株式を保有しました。太古は「太古輪船」の信用と市場での位置づけを生かし、キャセイをきわめて競争力のある地域航空会社へと育て上げました。

キャセイへの出資後、太古は正式に航空券代理業務を担うようになりました。同年に設立された「太古旅遊(スワイヤー・トラベル)」は、香港で最初に正式登録された旅行会社(免許番号:350001)で、2017 年に中国資本のグループへ売却され、全旅達と改名されました。また、100 年余り前に太古の出発点となった「太古輪船」の旅客輸送事業は、1990 年に幕を下ろしました。

キャセイは 1950 年代にジャーディン・マセソンが運営していた Hong Kong Airways の路線を吸収し、香港返還の前後には「香港ドラゴン航空(港龍航空)」、「Air Hong Kong」(華民航空)、「香港快運」(HK Express) を相次いで買収し、長年にわたって香港を最もよく代表する航空会社であり続けました。

(「キャセイパシフィック航空館」と「香港ドラゴン航空館」もあわせてご覧いただくと、関連するブランドの物語をさらに深く知ることができます)

太古糖が生んだ

「太古コカ・コーラ」

第二次世界大戦後、太古の海運事業が汽船から航空へと転じた頃、もう一つの祖業である太古糖もまた新たな挑戦に直面していました。1960〜70 年代に各国の経済が離陸すると、太古糖は各地の高関税による保護政策に直面します。1948 年、米国資本の会社が太古の製糖工場に目を付けました。砂糖と、山の上の太古の貯水池(太古水庫)から引く水がそろっていたためで、工場を借りて「香港汽水廠」(「汽水〔ヘイソイ〕」は炭酸飲料のこと)を開設し、米国「コカ・コーラ」社の許諾を得て香港での生産・販売を始めました。

1965 年、香港汽水廠の責任者の引退に伴い、太古はこの汽水廠を買い取り、1974 年に「太古汽水廠」(Swire Bottlers) と改名しました。現在、「太古コカ・コーラ(Swire Coca-Cola)」は世界最大級のコカ・コーラ・ボトラーの一つで、その営業権は香港、台湾、中国の 12 の省・市、米国西部に及びます。

(「太古コカ・コーラ館」もあわせてご覧いただくと、関連するブランドの物語をさらに深く知ることができます)

東区(イースタン地区)太古歴史散歩

太古の歴史を肌で感じたい方は、太古駅から歩き始めるとよいでしょう。まずは太古城中心(シティプラザ)の外に出て、太豐路にある「太古船塢落成碑石」(太古ドック竣工記念碑)を見学します。太古城中心の地下駐車場に入り、かつての太古乾ドックの歴史の時空を感じてみるのもよいでしょう。

その後は西灣河方面へ歩いて太安樓へ。ここはかつての従業員宿舎の場所で、現在は無数の軽食店が軒を連ねています。お腹を満たしたら、西行きのトラム(香港の「電車」は路面電車のことで、日本の「電車」とは異なります)に乗って太古坊へ向かいましょう。そこには今も糖廠街という通りが残っていますが、太古の製糖工場は何棟もの新しいオフィスビルへと姿を変えています。

製糖工場はなくなりましたが、太古らしさは今も息づいています。各オフィスビルの建築的特徴、英国の地名を冠したビル群、アート展示スペースの ArtisTree などがそれで、ときには Bazaar(バザー)が開かれることもあります。トラムの線路沿いに康山方面へ歩けば、かつての製糖工場労働者の宿舎跡を通ります。現在そこには、SNS 映えする撮影スポットとして人気の海山樓が建っています。

体力に自信のある方は、南豐新邨の裏手の康柏徑から古道を登り、太古吊車(太古ロープウェイ)の遺構を探すこともできます。太古吊車は香港初のケーブル索道システムで、蒸気を動力とし、6 人乗りの開放式車両 2 両を備え、暑さを避けて山の上に住んでいた外国人従業員の製糖工場への行き来のために運行されていました。

帰り道に太古の歴史の余韻に浸りたければ、太古城中心の隣にある太古運営のホテル「東隅(EAST 香港)」でひと休みするのもよいでしょう。館内には Sugar という名のバーがあり、製糖工場にちなんで名付けられたといわれています。太古駅は東隅のすぐ隣にあり、とても便利です。

駅を後にする際には、太古駅のコンコースもぜひご覧ください。この場所はもともと花崗岩の岩盤で、アーチ構造で支えられているため、コンコースは柱のない広々とした空間になっています。1980 年代の建設当時、東南アジア最大の人工岩洞の駅コンコースでした。

別記:太古「信望香港 信望未來」(香港を信じ、未来を信じる)展

ウェブサイト:https://www.swire.com/tc/community/exhibition.php

お問い合わせはexhibition@jsshk.comまでメールでお願いいたします。

参考資料:

China bound : John Swire & Sons and its world, 1816-1980
Robert Bickers
London : Bloomsbury 2020

太古之道 : 太古在華一百五十年(太古の中国における 150 年の歩み)
鍾寶賢著
香港第一版 香港 : 三聯書店 香港有限公司 2016

洋行之王 : 怡和(洋行の王・ジャーディン・マセソン)
劉詩平著
三聯書店香港有限公司 2010

香港走過的道路(香港が歩んできた道)
劉潤和、高添強著
香港增訂版 香港 : 三聯書店香港有限公司 2013

香港商戰風雲錄(香港ビジネス商戦の記録)
藍潮著
初版 香港 : 名流出版社 1997

https://www.swire.com/ourjourney/desktop/tc/index.html
http://www.swirehall.hkusu.hku.hk/FM/History.html
http://www.tps.edu.hk/
https://www.taikooplace.com/zh-hk/whatson/the-mag/historicalhotspots
https://www.facebook.com/%E5%A4%AA%E5%8F%A4%E5%90%8A%E8%BB%8A%E5%B0%8E%E8%B3%9E%E5%9C%98-110725100326888/
https://www.gjtaiwan.com/new/?p=20159

https://news.now.com/home/local/player?newsId=99592

First published in Sep 2020 by Hong Kong Brand Museum 香港品牌博物館

Updated in Mar 2022.

ブランドから見る香港史|001・スワイヤー館|太古集団の歴史と香港の百年2023-08-22