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怡和(ジャーディン・マセソン)館

怡和集團 Jardine Matheson Group

今日でも銅鑼灣(コーズウェイベイ)では、毎日正午 12 時に礼砲が放たれます。「怡和午炮」(ジャーディンのヌーンデー・ガン)です。その起源は百年余り前にさかのぼります。怡和(ジャーディン・マセソン、Jardine Matheson)の従業員が、当時の怡和の倉庫を守っていた砲台を借り、会社幹部の歓迎や見送りに礼砲を放っていました。あるとき 21 発の礼砲を放ったところ、香港に着任したばかりの英国海軍の高官が激怒します。民間企業に軍隊の儀礼をまねる権限はない、というのです。そこで罰として正午に時報の砲を撃つことを課され、それがついには伝統となって、今日まで受け継がれています。

アヘン戦争を足がかりに興った 英国統治時代・商界の盟主

1832

Jardine & Matheson 渣甸行

怡和集團の英文名は「Jardines」(Jardine Matheson Group)です。銅鑼灣の「渣甸坊」や「渣甸街」、さらに跑馬地(ハッピーバレー)の上手にそびえる「渣甸山」は、いずれも怡和集團の創業者であるスコットランド人ウィリアム・ジャーディン(William Jardine)にちなんで名づけられました。タイムズスクエア(時代廣場)横の「勿地臣街」(Matheson Street)は、もう一人の創業者の名を取ったものです。また銅鑼灣東角の路面電車が走る一角は「怡和街」と名づけられています。

ウィリアム・ジャーディンは 1832 年、ジェームズ・マセソン(James Matheson)とともに廣州(広州)で「Jardine, Matheson & Co.」を設立しました。当時は「渣甸洋行」と呼ばれていました。当初は貿易が中心で、二人の創業者が熟知していたアヘンの商売(今日でいう麻薬売買にあたります)や、茶葉など英国向けの輸出などを手がけ、1839 年に貿易の拠点をマカオから香港へ移しました。

1842

伍氏の怡和洋行と

渣甸の怡和洋行

Jardines がなぜ中国語名に「怡和」を用いるのかについては諸説あります。公式サイトには、Jardines が 1842 年に「怡和」を正式な中国語名として採用したとあります。(The Firm’s Chinese name ‘Ewo’ - ‘the state of happy harmony’ - was adopted the following year.)

Jardines の「怡和洋行」が現れる前、廣州にはすでに、中国人の伍(Ng)氏一族が営む「怡和洋行」がありました。しかもかなりの規模で、当時の清朝政府から対外貿易の特権を得た筆頭の特許商人であり、事業は不動産や茶園のほか、アメリカでの鉄道や保険への投資にまで及んでいました。当時の伍氏の怡和洋行を、19 世紀の「世界一の富豪」と評する書物もあるほどです。

1842 年、アヘン戦争に敗れた清朝政府は、香港を割譲しただけでなく、巨額の賠償も課されました。その賠償の一部は、対外貿易の特権を得ていた商行にも転嫁され、伍氏の怡和洋行は 100 萬銀圓(銀貨 100 万ドル)を負担しています。さらに《南京條約》(南京条約)は清朝政府に五つの港の開港・通商を強い、中国人が営んでいた洋行はこうして姿を消しました。

一部の書物には、Jardines がこのとき旧怡和の事業を引き継いだと記されています。いずれにせよ、Jardines が 1842 年から「怡和洋行」の名を使うことに、もはや混同のおそれはなかったはずです。また一部の歴史家は、Jardines は英国政府と関係が深く、アヘン戦争や清末の英国対外貿易、さらにはのちの香港統治においても、その緊密な政治的関係の恩恵を受けて多くの利益を得た、と見ています。

「香港を統治しているのはジョッキークラブ(馬會)、怡和、滙豐(HSBC)、そして香港総督——この順である」という言い回しは、20 世紀半ばには広く流布していました。

1864

中環を堅守

怡和は 1864 年に本部を銅鑼灣から中環(セントラル)へ移し、以後一貫して香港の発展に関わり続けました。

  • 1866 年、「香港黃埔船塢有限公司」の設立を支援。
  • 1878 年、香港初の製糖工場「香港中華火車糖局」を建設。
  • 1879 年、香港初の製氷工場「香港雪廠」を建設。
  • 1884 年、「香港電車公司」(香港トラム)の設立を支援。
  • 1886 年、「九龍倉」(ワーフ)を設立。
  • 1889 年、「香港置地」(ホンコンランド)を設立。
  • 1897 年、「香港棉紡織染公司」を設立。
  • 1898 年、「天星小輪公司」(スターフェリー)を設立。

百年余りにわたり、怡和は傘下の「置地」を通じて中環の一等地を占め続け、現在に至ります。1973 年に完成した、円形の窓が印象的な「康樂大廈」(コンノート・センター)は、当時香港一の高さを誇るビルでした。1988 年に怡和集團の本部オフィスとなったのを機に、「怡和大廈」(Jardine House、ジャーディン・ハウス)と改称されています。

1886

九龍倉と怡和

1886 年、怡和は実業家ポール・チャーター(Paul Chater、遮打)と共同で「香港九龍碼頭及貨倉公司」(Hong Kong and Kowloon Wharf and Godown Co.)、略称「九龍倉」を設立しました。

九龍倉は一貫して尖沙咀(チムサーチョイ)一帯に拠点を構え、「天星小輪」(スターフェリー)、「海運碼頭」、「海運大廈」(オーシャンターミナル)、「海洋中心」、「海港城」(ハーバーシティ)、「馬哥孛羅酒店」(マルコポーロホテル)などは、いずれも九龍倉の開発事業です。

1980 年、実業家の包玉剛(パオ・ユエコン、Y.K. Pao)が激しい買収戦を制し、九龍倉はようやく怡和の手を離れました。以後、怡和の公式な広報が九龍倉の発展に触れることは、ほとんどありません。

滙豐(HSBC)と怡和

「中英公司」と「香港航空」

怡和は「滙豐銀行」(HSBC)の設立以前から、すでに送金業務を営んでいました。滙豐の登場は既存の事業を脅かすものだったため、怡和はその設立の過程で積極的に妨害し、英国政府による滙豐への営業免許の交付を遅らせることに成功しています。ところが設立から十数年で滙豐が当時最大の銀行に成長すると、怡和は 1877 年に滙豐へ出資しました。その後、滙豐は急成長の時代に入ります。

1898 年、怡和は滙豐と共同で British & Chinese Corporation(BCC)を設立しました。狙いは鉄道工事プロジェクトの獲得で、怡和が建設と運営を請け負い、滙豐が資金を受け持ちました。BCC は英国政府の後押しを得ていたと伝えられます。

1907 年、BCC は九廣鐵路(九広鉄道、KCR)の中国側区間の工事を獲得しました。今日の深圳・羅湖から廣州へ向かう直通列車の路線にあたり、1911 年に開通しています。一方、尖沙咀から羅湖までの英国側(香港側)区間は、記録によれば香港政府が建設を担い、その 1 年前に開通しました。開通後、香港政府は「九廣鐵路局」を設けて管理にあたらせています。

「九廣鐵路」のほかにも、BCC は南京と上海を結ぶ「京滬鐵路」(「京」の字は、当時中華民国の首都が南京だったことにちなみます)や、蘇州・杭州・寧波を結ぶ「蘇杭甬鐵路」の建設も請け負いました。

第二次世界大戦後、航空業界は飛躍の時を迎えます。書物の記録によれば、1947 年初め、怡和と滙豐は英国海外航空(BOAC)と組んで、小さな航空会社「Hong Kong Airways」(香港航空公司)を開業しました。しかし 1949 年以降、中国が対外的な閉鎖政策をとって香港との航空路を禁じたため、Hong Kong Airways は経営難に陥り、1959 年、國泰航空(キャセイパシフィック航空)が要請を受けて Hong Kong Airways を吸収合併しました。

置地公司

1889 年 3 月 2 日に設立された「香港置地及代理有限公司」(Hongkong Land、ホンコンランド)は、香港で最も歴史の長い不動産会社であり、香港の政治・経済の心臓部である中環でのオフィスビル開発を主力としています。置地は、九龍倉に続いて怡和と実業家ポール・チャーター(遮打)が再び手を組んで設立した会社です。今日の「遮打道」(チャーター・ロード)一帯は、置地の設立後に香港政府へ働きかけて埋め立てられた土地で、置地はこの一帯を開発し、今日の中環の中核街区をつくり上げました。

1965 年、置地は歩行者用ブリッジで太子大廈と隣接する建物を結びました。当時としては革新的で時代を画する設計であり、今日もなお象徴的なペデストリアンデッキ網として 12 棟のビルを貫いています。「遮打道」も置地公司の創業者ポール・チャーターにちなむ名で、1980 年代初め、地鐵(MTR の前身の地下鉄)が開通した当初は、中環駅の英文名も「Chater」でした。1985 年に港島綫(アイランド線)が開通して、ようやく現在の「Central」に改められたのです。

置地が香港に持つ物件には、「置地廣場」(ランドマーク)、「交易廣場」(エクスチェンジ・スクエア)、「歷山大廈」、「遮打大廈」、「太子大廈」、「約克大廈」、「富臨閣」、「文華東方酒店」(マンダリン・オリエンタル)などがあります。また、中環の「康樂大廈」と「香港會」(香港クラブ)、地利根德里の「世紀大廈」、薄扶林の「置富花園」、月華街の「觀塘大廈」、西灣河の「太安樓」、銅鑼灣の「世貿中心」と「怡東酒店」、灣仔(ワンチャイ)の「會展一期」(香港コンベンション&エキシビションセンター第 1 期)、屯門の「置樂花園」、荃灣の「綠楊新邨」、大潭の「紅山半島」、大坑道の「上林」なども、置地が開発に関わった物件です。

1980 年代には、置地公司はさらに公益事業へも進出し、「香港電話公司」と「香港電燈」の株式の一部をそれぞれ取得しましたが、のちにいずれもすべて売却しています。

文華東方(マンダリン・オリエンタル)

1963 年、置地傘下の文華酒店(Mandarin Hotel、マンダリンホテル)が中環に開業しました。1972 年には銅鑼灣に怡東酒店(The Excelsior、エクセルシオール)が開業し、当時の「文華東方」の本部が置かれました。グループで唯一、「文華東方」の名を冠さないホテルでもありました。怡東酒店は 2019 年 3 月に閉館し、建物は取り壊されてオフィスビルへの建て替えが進められています。

1987 年、文華東方は置地から分離してロンドンで単独上場し、怡和が直接保有することになりました。以来、ホテル運営を専門とする国際ブランドとなっています。

牛奶國際(デイリーファーム・インターナショナル)

1972 年、怡和は置地公司を通じて「牛奶公司(デイリーファーム)」の買収に成功しました。買収戦を制するため、怡和の主席(会長)ヘンリー・ケズウィック(Henry Keswick)自らが牛奶公司の一部株主に電話をかけ、株式を置地株と交換するよう説得にあたったといいます。これは香港株式市場の歴史に残る買収事件となりました。

怡和が買収戦を仕掛けた主な狙いは、牛奶公司が持つ広大な土地の権益でした。その土地はのちに、今日の「皇室堡」(ウィンザーハウス)と「置富花園」になります。牛奶公司はその後、事業の多角化を進め、既存の「惠康」(ウェルカム)に加えて「萬寧」(マニングス)を買収したほか、怡和は牛奶公司へ「美心」(Maxim’s)の株式 50% を注入しました。1986 年に怡和が組織再編を行うと、もともと置地公司傘下にあった牛奶公司は分離上場して「牛奶國際」(デイリーファーム・インターナショナル)となり、怡和集團が直接支配する持株構造の下に置かれました。

牛奶國際と怡和は、「IKEA」(イケア、1975)、「7-Eleven」(セブン-イレブン、1981)、「Pizza Hut」(ピザハット、1987)、「Starbucks」(スターバックス、2000)と、さまざまなブランドを相次いで香港へ導入してきました。2013 年には、怡和飲食集團(Jardine Restaurant Group)が「KFC」の香港事業を買収しています。

近年、広告で「最大級」とうたわれる会員プログラム「yuu」は、まさに怡和傘下の小売・外食事業をひとつのネットワークにしたものです。そのカバー率の高さこそ、怡和が香港で今なお持ち続ける影響力を映し出しています。

怡和午炮(ジャーディンのヌーンデー・ガン)

怡和の歴史に触れてみたい方は、「怡和午炮」(Noon Day Gun)の儀式を見に行くのもおすすめです。

儀式が行われる場所にも歴史があります。1841 年、英国軍はすでに香港で旗を掲げていましたが、《南京條約》(南京条約)はまだ調印されておらず、香港の割譲は清朝政府に正式に認められていませんでした。それでも当時の渣甸洋行は、マカオで行われた競売で 565 英ポンドを払い、東角の土地 3 区画を手に入れていました。現在の銅鑼灣(コーズウェイベイ)の Sogo から海辺にかけての一帯で、これが英領香港で初めて行われた土地の競売でした。

また、香港初の電信線も 1863 年に怡和が敷設したもので、東角の本社と中環(セントラル)の支店を結んでいました。

そのため、渣甸坊の向かいにある「東角道」や、Sogo が入る「東角中心」は、いずれも「東角」(East Point)にちなんで名付けられています。「怡和午炮」の場所は、かつての怡和の貨物埠頭です。当時は治安が悪く海賊も出没したため、怡和洋行は小型の大砲で自らの財産を守っていました。

英国軍から罰として命じられた礼砲による時報はやがて伝統となり、返還後も毎日の午砲として続いています。さらに大晦日の 23:59 には「子夜禮炮」(ミッドナイト・ガン)があり、砲声の後に《友誼萬歲》(蛍の光、Auld Lang Syne)が演奏され、一年の終わりを告げます。

場所:銅鑼灣・世貿中心(ワールド・トレード・センター)向かいの避風塘の岸辺
時間:正午 12 時

参考資料:

洋行之王 : 怡和(洋行の王・ジャーディン・マセソン)
劉詩平著
三聯書店香港有限公司 2010

香港金融風雲35載(香港金融激動の 35 年)
陳景祥主編
天窗出版/信報財經新聞有限公司 2008

香港走過的道路(香港が歩んできた道)
劉潤和、高添強著
香港增訂版 香港 : 三聯書店香港有限公司 2013

太古之道 : 太古在華一百五十年(太古の中国における 150 年の歩み)
鍾寶賢著
香港第一版 香港 : 三聯書店 香港有限公司 2016

香港商戰風雲錄(香港ビジネス商戦の記録)
藍潮著
初版 香港 : 名流出版社 1997

航空新舊聞(航空の今昔ニュース)
趙予杰著
經濟日報出版社

從啟德出發(啓徳から出発して)
吳詹仕著
經濟日報出版社

改變香港歷史的60篇文獻(香港の歴史を変えた 60 の文献)
區志堅、彭淑敏、蔡思行著
中華書局

上半山下中環 : 一個城區的蛻變(半山と中環:ある街区の変貌)
余震宇編著
初版 香港 : 中華書局香港有限公司 2017

香港歷史圖片 : 博物館藏品精選(香港歴史写真:博物館所蔵品選)
香港博物館編輯
香港歷史博物館
香港 : 香港市政局 1982

https://www.jardines.com/en/group/history.html

https://www.hkland.com/tc/about-us/history-and-milestones

https://hklandblob.blob.core.windows.net/assets/125_anniversary_tc/mobile/index.html#p=1

http://cache.org.hk/rthk/teachingmaterials/rthk_book20151123.pdf

https://kknews.cc/zh-hk/history/9emmb8.html

https://hk.appledaily.com/finance/20191125/RAMIP2RFYPUUHQ5NWPDSIZORYQ/

https://www.hk01.com/%E8%B2%A1%E7%B6%93%E5%BF%AB%E8%A8%8A/30955/%E9%B4%89%E7%89%87%E8%B3%BA%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%A1%B6%E9%87%91-%E6%80%A1%E5%92%8C%E9%A2%A8%E9%9B%B2%E4%BA%8C%E7%99%BE%E5%B9%B4

香港電台(RTHK)《古今風雲人物》、《歷史說香港》

Published in Sep 2020 by Hong Kong Brand Museum 香港品牌博物館

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